号泣する準備はできていた / 江國香織

言葉にできない。
引用します。

隆志と身体を重ねることは、私の人生で最大の驚きだった。あんなふうにらくらくとするすると、しかもぴったり重なり組み合わさるなんて。あんなふうに嬉しいまま、甘いまま、笑いながら愛おしみながらどこまでも止まらない気持ちで、窓の外で日ざしが移ろい、部屋の中がゆっくり暗くなっていくことにさえ気づかず、自分の手も足も目も唇も胴体も私とは別の生き物みたいに勝手にふるまい、もっともっともっともっととそれぞれがもう嬉々として隆志の髪や頬や首や胸や腹や腰や膝や腿やふくらはぎや足首や手の指や腕なんかに触れたがり、からまりたがり、隆志の肌の芳しい匂いや、温かさ、そこに隆志が存在しているといただそれだけのことが、ぬるいやさしい水になり日ざしになりして私にふり注ぎ、なんてすてきなんてすてきなんてすてきなんてすてき、と、ほとんど溌剌といっていいような様子と心持ちで自分の身体が弾むのにも驚き、かすかな、でも愉しそうな笑い声がさっきからずっと続いている、と気づいて耳を澄まそうとして、その途端にそれが自分の喉からでたものであることを知り、今度ははっきりと声をたてて笑ってしまう。
(「号泣する準備はできていた」p.195)

痛いくらい分かるの。
この気持ちが手に取るように分かるの。
なんて正直な文章なんだろう。

他の短編からもお気に入りのシーンを引用。
もはや解説などいらない。

「言ってごらんなさい。何が不満なの?」
片方の肘をカウンターにつき、その手で頭を支えている。とてもほんとうとは思えないくらい、特別できれいだ。
「何も」
私は微笑んでこたえて、
「あるいは、何もかも」
と言い換える。
(「熱帯夜」p.51)

「教えない」
と、言ってみる。三人は礼儀正しくひやかしてくれる。どうしてー、とか、けちー、とか。語尾をのばす大人は、ばかか優しいかのどちらかだ。
(「どこでもない場所」p.167)

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