異邦人 / カミュ

意外にもすんなり書評が書けない。
「理不尽」とか「不条理」とか
「ママン」とか「太陽のせい」とか
そんな言葉でまとめられるほどシンプルではない。

むしろ全体を通して気になったのは、
話の内容以前に、語り手の口調。
これか?これなのか?
大学院でかじりつきながら読んでいた論文に書いてあったことは。

おもしろいことに、解説の最後にそれについて言及があったので引用。

もう一つの問題は、ムルソーの回想のごとき体裁を取っているこの小説が果してムルソー自身によって執筆されたのか否か、ということである。カミュは絶妙な手法を発見してこの問題を解決した。ここでは筆者の結論だけと申上げるが、この小説は、法廷でムルソーが視線を交した、ひとりの新聞記者による聞き書きである、という仮説を立てている。大方の読者の御批判を仰ぎたい。
(p.140)

えー?それはどうだろう。でも興味深い。
というか、この語り手は誰でもない気もするのだけど。
もはや人間ではない。無形の語り手。非存在物。

『異邦人』を読んで、
「ああ理不尽だ。
この世の中を生き抜くためには、親の葬式で泣くフリをしないといけないのか。
嘘を重ねないとやっていけない窮屈な世の中なのか。
くそくらえ。」
って思う人が一体どれだけいるのだろう。

そんな単純なものではない。
それの上に、もしくは下に、もっと深い意味がある気がする。
確かに文庫本は薄っぺらいが、そんな薄っぺらい話ではない。

何かがある、ということは分かるのですが、
はっきりとそれを掴めていませんし、
言葉にもできそうにないので、
この本はもう何度か読み直して、
深い解釈をしたいと思います。

何かおもしろい方向性が見えるような意見がありましたら、
御指示を仰ぎたいです。

そうだ。ひとつ思い出した。
この作品は全体を通して「フランスらしさ」が滲み出ているのだけど、
それがどうにも気が滅入る感じ。

たとえばナボコフの「ロシアらしさ」は、作品にプラスの影響を与えている。
きりっと引き締めている感じがする。
時代小説の「日本らしさ」なんて、それが中枢になっている。

もちろん、この『異邦人』の「フランスらしさ」も大切な要素であるが、
それがまたなんだかマイナスオーラががんがん出ているというか。
暑い夏の日、じりじりと照り付ける太陽、
海で泳いだ後の塩がまとわりつく感じ、
気怠さ、みたいなものがあらゆる箇所に散りばめられてる。

そうか、これがフランスか。
今まで行ったことはないし、フランス文学を読んだもの初めてかもしれない。
『異邦人』を深く理解するためには、このような側面からの考察も必要かも。

と思いながら、
フランス文学を研究している知人を2人思い出す。
祖父と、高校の先輩。

あー。
そうか、それがフランスか。

追記:2010/09/06
『異邦人』について祖父と話し合ってみようと思う。

コメント

タイトルとURLをコピーしました