
うわあーえぐい。と思ったのがまず最初の感想。
フィリピンでの戦争の話。
私小説ではないにしても、著者の実体験を考慮すると、
どこまで本当なのかが分からなくなる。
とりあえずこの話は「カニバリズム」という視点から読まれることが多いらしく、
たしかに本文の半分以降はカニバリズムにおいての葛藤が多々描かれている。
「神」の声が聞こえたり、左手で右手を止めたりして、
結局最後まで他人の人肉を食べる事を頑に拒絶していたようである。
生の芋や草を食べるのは理解できるのだが、
自分の血を吸った蛭を食ってやった、という表現には背筋がぞっとした。
蝿に対しても、自分の粘膜を食わせてあげてるのだ、と。
そのような状況になってまでも他人の肉を食う事を拒んでいたのに、
手榴弾によって負傷し、地面に落ちた自分の肉を何の躊躇も無く食べる姿。
自分が菜食主義をしていた頃を思い出してしまった。
不潔で不浄なのである。血が通ったものなんて。
タイトルにもなっている「野火」については、理解が難しい。
読み終わった後も、タイトルにするほど重要なものだったか、と思ってしまった。
それよりも印象に残った言葉は「任意」。
徐々に平常心を失い始めたあたりから多々使用されており、
深い意味を持ち、重要な意味を持つ決断へと導く過程の中で使われていた。
まあ、タイトルが「任意」ではちょっといまいち、である。
「野火」が象徴するもの。
本文の最初と最後では確実に変わっている。
最後のシーンで、なぜ野火のもとへ行ってその火の元を確認しようとしたのか。
結局、カニバリズムに参加したいという意思から逃れられなかったのか。
最初は恐怖であった「野火」が、いつしか別の意味をもつ火への変化していった。
別の意味、難しいな。
確かに、37章以降はいらないかもしれない。
狂人であるなんて、ただの言い訳にしか過ぎない。
そんなバックグラウンドは読者にとってどうでもいいのだ。
そこまでの体験や景色が意味を持つのである。
しかも、39章はどういうこと?
理解できなかった。死んでるっていうこと?じゃあなんで書けたの?
という凡人のような疑問しか生まれない。
狂人の言う事は当てにならない、ということか。
読んでいて、目を背けたくなるシーンが多々あった。
想像しただけで、「うげえ」となってしまう。
この時代に生まれてきて良かったとまで思わされてしまう。
しかし目を背けていてはストーリーは進まない。
読書の醍醐味である。
もっと読もう。
広がれ、マイワールド。
米文学を専攻している私にとっては、
ずいぶん不必要な授業を取ってしまった、と思ったものだったが、
このような未知の文学に出会わせてくれるのはとても嬉しい。
読んでいて気になったのは、「レトリック」という視点からの解釈。
なるほど、だからあんなに見ず知らずの土地の情景がありありと眼前に浮かんだのだ。
この技法はすごい。
以下引用。
丸谷才一『文章読本』(中央公論社、1977、後に中公文庫)は、全12章のうち第9章(文体とレトリック)の例文をすべて『野火』から採っている。直喩、隠喩、擬人法、迂言法、迂言法の一種としての代称、頭韻、畳語法、反復のうち首句反復、結句反復、前辞反復、パリソン(同じ構造の節や句をつづけざまに用いる)やイソコロン(同じ長さの節の連続)の「親類筋」にあたる対句、あるいは羅列、誇張法、その反対の緩叙法、その「兄弟」くらいの曲言法、他方自然に見せかけるための修辞的疑問、言いまわしの型の一つである換喩、撞着語法、声喩、擬声音、擬態音は言うまでもない。そして、論理的であるための準備、伏線、但し書き(譲歩)や念押し・・・・。かくのごときありとあらゆるレトリックが文庫本で僅々200ページ足らずの『野火』にわんさと盛り込まれている。『野火』は全体としてレトリカルな、しかもすぐれてレトリカルな作品である、と丸谷が指摘する所以である。
こうやって文字にされると凄まじいな。
この『文章読本』も読んでみたい。
好き。レトリック。


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