
いや、すこぶるためになる!
さすが学者なのだなあという感じ。
昨日読んだコリン・ジョイスのよりも、興味をそそられる点が多いというか、共感する点が多いというか。
まあ読んだのも3度目くらいなのだけど。
やっぱり著者が日本人か英国人かということでは大きく違うのだろう。
おもしろいな、と思う対象も、不思議だな、という対象も。
もちろんジョイスの視点は興味深いものではあったけれど。
なぜなら彼の言う通り我々日本人は英国人も米国人も西洋の人とひとくくりに考えてしまっているからだ。
でも、だからと言って、英国人と米国人はこんなにも文化や言葉が違うんだ、と言われても、我々からしたら、へえ、そうなんだ!としか言いようがないのである。
一方で柴田先生のは、日本人として知っておくと得になる知識が詰まっている感じがする。
へえ、そうなんだ、だけでは読み流せない。
なんか、誰かに言って聞かせたくなる感じ。
一度、学部生の時にあたしの大学に柴田先生が来てレクチャーをしてくださったので、駆けつけたことがある。
たしかに目の前の柴田先生は自身が本の中でも繰り返し言っているように、小さくてほっそりしていた。
それでも当時(おそらく今でも)とてもヒップな、翻訳文化における現代性を表す作品をいくつか紹介してくださって(視聴覚教材を使って!)、あたしたち生徒は一心不乱にその聞いたこともない作者の名前と本のタイトルを書き留めたものだった。
あのプリントはどこへいってしまったかな。
当然ながら瞬間的にはとても興味が湧いたにもかかわらず、あたしは今になってもまだそれらの作品を読んでいない。
でも話を聞いたところで、問題性は分かったのだ。
たしかに作品を目で見てみたいところがあったけど。
たとえば、今すぐに思い出せるのは、イギリスの作家だったと思うけど、英語で書く文章をすべてワープロではなくて、新聞や雑誌からの切り抜きの文字で表している、とのことだった。
HeとかThank you.とかがよくあるパンクバンドのフライヤーみたいに、切り貼り切り貼りでガタガタなのだ。
それを日本語に訳す時にどうするか、とのことだった。
まあ日本語バージョンで同じことをすることもできるが、その視覚的なニュアンスは100%翻訳できないのではないか、ということだったな。
あと、もういっこ思い出せそうだ。
たしか、それはその本の著者が、勝手に言葉を造り上げてしまって、それを日本語にどう訳せばいいのか、みたいな、そんな。
うーん。
落ち着いたらあの日のプリントを探し出したいな。
まあ、どこにあるかは検討が付いてる。
大事なプリントの部類だ。
だってあたしは本当にあの日柴田先生のレクチャーを聞けて感動したもの。
「柴田元幸というネームブランドによって、彼が翻訳者なら読んでみようと手に取り、作品自体にも良い評価を与えがち、という、先生の名前先行っぽくなっている現状をどう思いますか」と質問した生徒がいたな。
先生はなんて答えたかな。(そこを忘れるんかい。)
そんな存在になってみたいものだ。
あたしは翻訳者になりたいわけではないけど、おそらく柴田先生も村上春樹も、本人たちは自分たちのことを翻訳者だとは思っていないと思う。
教授、とか、作家、とかいうタテマエがあって、ふたりともちょっと趣味の域でやっているような気がするんだよなあ。
春樹なんかは完全にそうだ。たしかどこかで自分自身で言っていた。
翻訳ってそういうものだろう。
お皿に入った豆を、反対側のカラッポのお皿に、一粒一粒箸でつまんで入れるようなものだろう。
そんなことを本業にはしたくないよね。
シェークスピアの訳をしていた、福田恆存。
最初は読みにくいな、と思っていた。
(おそらくシェークスピア自体がそういう作品で、福田さんに非があるわけではないと最近思っている。)
でも、ヘミングウェイの『老人と海』であとがきをしていて(もちろん訳もしていたのだが)、そのイギリス文学専攻者からのアメリカ文学分析、というのがあまりにも学術的すぎて、言葉を失った。
彼の本質はこっちだ、本業はこっちなのだ、と思ってしまったほどだ。
つまり、結局、学者なのだ。
翻訳なんて、たとえばアメリカ人の父親と日本人の母親を持って、両方の言語を不自由なく話せるのなら、誰だってできるのだ。
根気さえあれば。
もちろん春樹みたいに自分の持ち味を翻訳に混ぜ込むこともできると思うけど。
正しい訳、なんて誰にでもできるでしょう?
それ以上に、世に出回っている本にはいまだに誤訳があるくらいだし。
要は、そんな、だれでもやり方さえ覚えればできてしまうようなことを、一生の仕事にするつもりはないのだ、あたしは。
もっと独創的で創造的なことがしたい。
明日はせめてバンドのために1曲作りたいな。
絶対来週中にソロのアルバムを完成させよう。
そして暖かくなってきたら歌う。
よし。


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