
すごい面白かった。
オチもあって、しっかりしてる。
彼が軽い障害を持っていたとか、サバン症候群だとかいう話があるけれど、そんなの関係無しにしてもよくできた小説だ。
いろんなことがあり八幡学園に入れられた山下清は、そこで貼り絵(ちぎり絵)の才能を開花させる。
何がすごいって、彼は景色を見ながら貼り絵をするのではなくて、素敵な景色をたくさん見て、覚えて、八幡学園に戻ってから思い出しながら作品を作るのだ。
とんでもないよな。
そう考えるとサバン症候群的なパワーがあるのかもしれないけれど、遺族は山下清が障害者と分類されるのを拒んでいる。
それもそうだ。
彼は普通の人であった。
ただ、自分で自分のことを頭が弱いと思っていた。
それだけのことだ。
この小説は、紆余曲折あり山下清が生きている間に、日本でも世界でも著名なアーティストになり、彼の個展が日本全国を巡回するというので弟に付き添われ、日本全国津々浦々を旅した記録である。
特筆するべき点は、彼はもう自由ではなかったということである。
彼が八幡学園を抜け出し、自由を求めてひとりぼっちで自由気ままに放浪したのは昭和15年から29年にかけて。
その間、たまに実家に戻ったり、たまに八幡学園に戻ったりして、本当に好き勝手に線路沿いを歩いて素敵な景色を見続けた。
その間にアメリカの雑誌ライフが彼のことを取り上げたもんだから、もう世界的な有名人(しかし所在不明)になってしまい、昭和29年には鹿児島で捕らえられる。
彼にとってどれだけストレスであったことだろうか。
そうして家族に保護され、彼は商業アーティストとしての道を歩む。
つまりテレビ会社や出版会社の出資のもとで、個展を開かれ、それが収入を上げるために全国津々浦々の個展ツアーをするのである。
この小説は、その捕らえられてから全国ツアーをしている山下清の日記である。
したがって、思い出話も多い。
僕はここへ以前来た、その時はどうだった、という文章も少なからず見受けられる。
でもこのように弟を携えて、記録された上で日本津々浦々回られたのは、私たちにとって財産でしかない。
(これでも相当読みやすくなっているのだろうけど)彼の独特の言い回し、彼しか生み出せない疑問、話の展開のオチなどが、非常に最高なのである。
山下清は非常にケチである。
絵が売れて金を持っても、宿泊宿に金銭を支払って泊まるのはあり得ないと思っている。
放浪の頃は駅でタダで寝ていたと。
その他いろんなことにお金を払うのが、まあすんなりいかない、非常にケチだ。
有名人ゆえの苦悩も多い。人にギャーギャー騒がれるのが苦手だ。いろいろ質問されたり、写真を取られるのも嫌いだ。
人に笑われてばかりだけど、何がおもしろいのか分からないと言うし、自身では笑うことは下手だという。
頭が弱いということを自覚していて、それゆえの苦手意識や、他者との違いも痛いほど感じている。
「こんなことを聞いたらまたバカにされるのでやめよう」みたいな精神は、とても悲しい。
弱者がそれを実感してしまうのは非常によろしくない。
個展で出会った男性が「わしも山下清に毛のはえたような男です」と言う。
山下清のさぞかし混乱したことたるや。
なんとも山下清らしいエピソードである。
鹿児島なんかは7度目だと言っているのだから、どれほど長い間放浪していたか、そして寒い時期での南国をどれほど愛したかが分かる。
売れっ子になってからの個展ツアーの日記、といえばその通りなのだが、必然的に個人で放浪したころの思い出話が差し込まれているのがいい。
世の中のいろんなことを兵隊の位に例えるのもおもしろい。
今の菅がどれほどんのもんか、ぜひ山下清にジャッジしてほしいものである。
この文章を書いている時の山下清の歳が34だというので、全く一緒だなと思いながら読んだ。
負けるのが嫌いなので、勝戦しかしない。腕相撲でも男とやると負けるから、女としかしない。私もそんなもんだ。
「松江から力道山といっしょに汽車にのって、鳥取へいった。力道山と話してみたら、肉をたくさん食べるとみえてそばにいると肉のにおいがした。」
道後温泉でどうしても女の風呂を見たい、と言った純粋さが愛おしい。
その帰り道のこと。
「弟は「あっ、ここは赤線だ」といって、僕の手をひっぱって逃げるようにいそぎ足に引きかえした。」
それでもいまだに彼にとって赤線が何なのか、分からないままなのだ。
不思議だと思う。調べればすぐに分かるのにさ。
彼はいつも言葉で人に聞くから、聞く相手によって、彼の世界の見え方も変わってしまう。
弟や式場先生がいい人でよかったね。
この本の表紙は、カジノ座のストリップの女性だ。
人や動物は動くから描きにくい、と常々思っている彼は、ストリップの楽屋で、モデルにはなるべく動かないようにしてもらってこの絵を描く。
「ぼくはこんな大人のストリップよりも小学生ぐらいの女の子のストリップが見たい。(略)ぼくはまだおちちの大きくならない子どものストリップがあったら、毎日みにゆきたい。」
最高、清さん。
泣いたことがない、と、自身でも言う通り、ブレない平坦な感情で生きていたのであろう。死後の世界や、宗教についても無関心であった。
死んでからのことは、どうなるか分からないから、興味がない、のだという。
本当にその通りであって、死んでみないと死んだ後どうなるかなんて分からないのに、人は死ぬ前から長い時間をかけて死んだ後のために準備している。死んだ後、幸せに生きるために?
滑稽だ。本当に滑稽だ。私だって、死後の世界に興味なんてないけれど。
家の墓を誰が守るのだとか、もしこのまま長男の家族に男の子ができなかったら、とか、あの実家はどうすんだい、みたいなことは全部めんどくさい。
みんな自分の命が果てるときに何も持たずさっぱり散れたらいいのにね。
財産なんて残すから、ややこしくなるのに。
「死んでからのことはさっぱりわからないから、いい墓をつくってもらったり、もっといい名をつけてもらってもぼくにはわかりません。」
山形の山寺の300メートルの滑り台を、ぜひ乗ってみたい、からの、こわくなって、結局歩いて下りたくだり、可愛くて好きだ。
なんだかよく分からないけれど、このエピソードは非常に山下清らしいと思った。
「うちの家内」
家内という単語を知らずに「これはうちの家内です」と紹介されて、「ああこれがうちの家内さんですかといったらみんながどっと笑った」というエピソードが好きだ。
その章の最後でこの文章が書かれていて、私は彼と全く同じ年で、全くおんなじ気持ちで、切なくなった。
「ぼくはこのごろ人からいつよめをもらうかときかれるが、ぼくのような年になってよめをもらわないのはやはりおかしいのだろうか。ぼくはもらいたいと思ったことがないので、人からきかれるとこまってしまう。ぼくにはうちの家内というような女のひとがこれからできるのかできないのか、まるでけんとうがつかないのです。」
伊香保や道後や関東のいろんなところや浜松など、私も行ったことがある土地を、先に彼も同じように旅をしていたのだと思うと、ほくほく嬉しくなった。
あとがきの、式場先生の言葉もよかったし、何より、山下清の文章を研究しているという、寿岳章子さんの文章がめちゃくちゃ面白かった。
山下清の「〜ので、〜ので」文章について、ことわざが好きで、難しい漢字の単語もたくさん勉強していたこと。
愛に満ち溢れていた。


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