
この小説の中で「破戒」という言葉が出てきたのは、あの一度だけだったと思う。
そうか、「破壊」ではないのだ。
父親の教えを、自らの意思で破ろうとした、あの瞬間こそが、「破戒」の瞬間だったのだ。
瀬川丑松は教師。穢多出身である。父親には、身分だけは絶対に隠せ、と言われながら、バレずに育ってきた。
住んでいた家から、穢多出身の大名が追い出される。それを見てビビった丑松は蓮華寺に引っ越す。愛読書は穢多出身を公言する作家。大ファン。
田舎の父が種付け牛に殺されたので、葬式のために田舎に帰る。そこで、同じ街の政治家と同じ電車に乗る。さらにその電車には敬愛すべき作家・猪子蓮太郎と一緒になる。
とても仲良くなる。
その政治家はひっそりと穢多出身の女を嫁にもらったらしい。その嫁が丑松のことを知っていて、穢多だとバレる。
蓮華寺に戻ってきた丑松。穢多だという噂が学校にも広まる。そんな中、蓮太郎は殺されてしまう。最後まで真っ直ぐでかっこよかった蓮太郎の死に様を見て、自分も穢多であることを隠すのはやめよう、と、破戒をする。
教師を辞め、もうどうにでもなれ、の精神で、生徒の前で素性を明かすのだが、なんだか男らしくない。穢多であることを誇りには思えず、自分を卑下しながら、隠していてごめんなさい、と土下座までするのだ。
違う違う、もっと、新しい時代らしく、胸を張って、自分はみんなと同じ人間なのだ、と開き直ってしまえばよかったのに。
染み付いた考え方なのだろうか。
そしてその後どうなるかというと、慕っていた先輩教師(酒呑)の娘さんを嫁にもらう約束をして、かつて家を追い出された大名についてテキサスに行く、という、急激なハッピーエンドで終わる。
最後のテンポ感が急に駆け足になる。それまでは、8割方、ただ淡々と、穢多という身分との戦いで、蓮太郎に、言うぞ、言えなかった、今日こそは言うぞ、やはり言えなかった、の繰り返しだったのに。
後書き、のように、北小路健「『破戒』と差別問題」という論文があって、これが非常に読み応えがあって、いろいろ考えさせられた。
そもそもこの『破戒』という本が出された時代の、「穢多」とか「部落」とかデリケートな言葉の扱い方の難しさ。
後になって藤村は「この小説はもはや過去のことになった」という序文を付け足したらしいが(この本にはなかった)、どんなふうに時間をかけて時代が変わっていったのか。
そういえば被差別部落解放、というので「水平社」なんて言葉を覚えさせられた、と、社会の授業を少し思い出したりした。
「えた・ひにん」なんて覚えさせられたりした。
そのふた文字には、こんな辛い一人の人生が、何万も、何十万も詰まっていたのか。
良くないよねえ。差別は。
2022年は全国水平社創立から100周年。
100年前の日本、かあ。
100年経っても、変わらないものもあるみたいだ。
隠し通しても、カミングアウトしても、どっちも辛いなんて、そんなの辛すぎる。
私だったら、産まないでくれればよかったのに、と、思ってしまう。
本当はもうちょっと文学的な感想を書き記したかったけど、率直な意見は以上。
確かに「破戒」として、教壇で生徒に詫びる丑松の言葉が、「そこかい」と思ったし、ロマンスも、急展開だな、とは思ったけど、それは割と後書き(付録)に引き摺られてしまったところはあるのかも。
おおむね、丑松が先にも進めず後にも戻れないような、ただ理想と現実の板挟みになって、それでもそれなりに上手に立ち振る舞って生きていく様に、希望を見出せたし、がっかりさせられることなく、最後まで、完璧とは言わずとも、上手に生きてくれてよかったと思ってる。


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