
●舞姫
なんてひどい話だ。
というか、そもそもは、古文?くらい古い日本語で、果たして私はこれを読めるのだろうか、と不安になってしまった。
スノボみたいなもんで、走り始めたら、滑るしかなく、読みつつ、現代語に訳しつつ、時には英語に訳しつつ、それでも案外と読めるものなんだなあと、日本語の奥ゆかしさに痺れてしまった。
なんと例えたらいいのか。
だって、アメリカ人は、ラテン語なんて読めないでしょう?
森鴎外のこの文章は、とても古い日本語で、単語の解説は必要だし、なんなら現代語訳が必要なレベルかもしれないのに、意外に読めてしまう、意味が分かってしまう、ということに、ただただ驚かされるのであった。
まるで私が台湾の故宮博物館から、離れたくない、ずっとここにいてまだまだ楽しみたいと思った時みたいに。
そうか、私はあの時、雪山を自由自在に駆け回っていたのだな。
あらすじは、こう。
主人公の男は、よくできる男で、海外転勤になり、真面目に外交官をして、大学の講義などに顔を出し、そう、ここまでの人生、真っ直ぐ真面目に生きてきたのに、ある日、エリスという舞姫に出会う。
舞姫というのは、まさに、舞台に出演する女優。
とは言え、今で言う、サーカスみたいなものだろうかと勝手にイメージしている。
二人は恋に落ち、エリスの家に居候する。父を亡くしたばっかりで、DVをする母親がいるという。
男は、国の仕事をすて、エリスの元に留まることを選ぶ。
で、エリスは子を宿す。
そんな中、日本の、良くできた友人が来ると言うので、会う。
外交官の先輩みたいなおじさんと3人で会う。
出張に連れていかれる。ロシアへ。とても楽しくて、非常に重宝される。
友人には、エリスは捨てろ、と言われるし、そうでもしないと、自分は故郷に錦は飾れない、これが最後のチャンスだと理解する。
出張を終え、エリスの元に帰る。複雑な心境で高熱を出して寝込む。
見舞いに来た友人は、エリスに向かって、こいつはお前のことを捨てると言っていたよ、と、無垢っぽい辛辣な事実を告げる。エリスは発狂。
それを見捨てる。
非常にひどい話である。これが、7〜32ページで完結するのである。
それが、舞台になったり、映画になったりしているらしい。
How come? I’d like to see. って感じだ。
ひどすぎるよ。エリスが可哀想だ。
なんで森鴎外はこんな小説を書いたのだろう?
西欧の女性を踏み躙りたかった?
せめて小説の中だけでも優位に立ちたかった?
なんかムカつく。
●うたかたの記
これはどこまで本当なのか?
王様の死因は本当で、それに取って付けた空想の物語ってこと?
ルードヴィヒ2世。1845-86。享年40歳。
狂王、精神病、謎の死、などと単語が並ぶ。
あらすじは、主人公の巨勢(こせ)君は、昔可哀想なすみれ売りの少女を助けたことがあった。アート系に進み、友達エキステルに連れられて、アート系の酒場に登場。
生い立ちを話したところ、その助けられたすみれ売りの少女だったという女が目の前にいた。
巨勢が通う美大界隈でモデルをやっているらしい。2人で出かける。雨に打たれながら、少女マリイの故郷へ。ボートに乗っていると、ルードヴィヒ2世に偶然会う。
「王様!」と言うマリイ。「マリイ!」と叫ぶ王様。
マリイの母親は、王様と不倫をしていたのだ。そしてマリイは母親そっくりらしい。
卒倒したマリイは船から落ちて溺れる。船のほうへ近づこうとした王様は、湖(?)に入り、泥に足を取られ、助けようとした主治医と揉み合いになり、二人で死んでしまう(ここらへんは事実らしい)。
巨勢は、溺れたマリイを助けようとして、養父のところへ連れていくが、助からない。
王が死んだというニュースが大きく報じられる陰で、巨勢は、マリイの死を傷み続ける。
というあらすじで合ってる?
本当に、森鴎外の文章は、古文すぎて、なかなかすらすら読めない。
読んでいても、まるで外国語のように、意味が分からなかったりする。
不思議だよねえ。読めるのにさ。漢字もひらがなも。それでも意味が分からなかったり、解釈が難しかったりする。アメリカ人がラテン語を読む感じ?
とは言え、そんなに全く違う言語というわけでもなくて、雰囲気も分かるし、全然意味も分かったりする。し、分からなかったりもする。
日本語って面白い。
なんだこれは、どういう意味だ、とか言いながら、森鴎外を読んでいる私を、外国人はどう見るのだ。彼らにはどう映るのだ。
森鴎外。1862-1922。死んだのは大正11年で、生まれたのは文久2年だという。
文久?
江戸?
文久(1861-64)→元治(1864-65)→慶応(1865-68)→明治→大正となる。
明治・大正・昭和・平成・令和、よりも前は、江戸だもんね。
そんなことを言い出すと「江戸時代」とは、になる。
今は何時代なのだろうか。
森鴎外は、最近私が読んでいる本の中でも、かなり古い人だということが今分かった。
まあ、文章を読んだら、その読みづらさから、時代は感じるのだけど。
最近、ちまちま読んでいる文豪シリーズを、自分の中で年表作らないと、うまく、順番に並べないと。
●鶏
無欲な男、石田の話。
ケチではないが、質素な生活。
雄鶏も食べずに飼ってしまう。
そのうちに雌鳥も入手して卵を産むようになるはずなのだが、いつも別当というやつに卵は取られてしまう。
買ったお米は食べている以上になくなっているみたいだ。
気前良く自分のものを他人に譲ってしまって、別当に鶏まで持っていかれる。
ひよこも。
●かのように
賢くて繊細な男、秀麿。
裕福な子爵の子供として引き取られ、お金も学びも、十分すぎるくらい与えられていた。
夢は大きく、国史を死ぬまで研究したいと考えていた。
海外留学。みるみる病的になっていく。
手紙をもらって心配する子爵。
そして帰国。たくさんの書物と共に。
のらりくらりと本を読む毎日。
家に訪ねてきた友人に、己の哲学や宗教観を聞かせると、びっくりして「駄目だ」と言われ、自分が細い真っ暗な道を突き進んでしまっているということに気付く。
子爵に宛てた手紙の中身は面白かった。
信仰はなくても宗教の必要を認める。その必要を認めなくてはならないと言うこと、その必要を認める必要について。
うーむ、深く入り込むと、なるほど、理解できるフレーズなのである。
●阿部一族
切腹の歴史の本を読んでいてよかった。
あの本で切腹に関する知識をいっぱい詰め込んだので、この阿部一族も非常に興味を持って読めたし、しっかりイメージできた。
しかも細川忠利はあの細川家だよね?熊本の。
そういうふうに今までの私の人生の断片がポツリポツリとつながっていくの、いいな。
細川忠利が56で死んで、可愛がっていた二羽の鷹も井戸に飛び込み殉死した。
鷹だけではなく、18人が殉死をした。
殉死はただ後追いで死ぬのではだめで、生前に本人から許しを得ていないといけない。
死期が近いタイミングで、私もご一緒させてください、と言って「許す」という言葉をもらえれば、晴れて殉死できるのである。
知らなかった。
許しがないのに死ぬのは、犬死にである。
もちろん本人は家来や部下たちを道連れにしたくはないし、殉死なんてしてほしくないんだけど、残されて生きるのも、周りの目を考慮するとかわいそうなので、「許す」と言うしかないのである。
家来たちも、自分の意志で、慕っていた人の死後もお供したい、と思うは思うのだけど、殉死を望まなかったら、非情だとか恩知らずとか、辛いことを思われたり言われたりしそうなので、殉死を望まざるをえないのである。
長十郎という男も、殉死を願い、許され、家に帰って、母も嫁もいるのに、切腹するのである。
うーん。誰が得するんだこれ。
あとこれは実話なのか?
殉死した18人の名前も、どこで切腹したとか、家族のこととか、とっても細かく書かれている。
犬2匹とともに殉死する人も。犬の気持ち、分かるのか?
そして阿部弥一右衛門。
生前の忠利とソリが合わなかったのか、殉死を許してもらえなかった。
生き残ってしまったので、近所の人から悪口を言われる。
なので、犬死とは分かっていながら、切腹して死んでしまう。5人の子供が残された。
殉死したものの嫡子は、そのまま父の跡を継ぐ。でも弥一右衛門の嫡子である権兵衛は跡を継げず、父の遺産をみんなで分配したので少なくなった。
一周忌。権兵衛は焼香の際に位牌に小柄を備えたので、その場で捕らえられた。
武士を捨てようとした、というのが言い訳である。
光尚(忠利の子)は怒って、権兵衛を縛首にした。怒る権兵衛の兄弟。
兄弟仲良くな、という弥一右衛門の遺言を守り、阿部一族は妻子を引きまとめて屋敷にこもる。
しかし討手に攻め入られる。
この討手たちの中にも色々事情があるようで、上のものが下のものに「お前がやれ」と手を汚させる。殉死するはずであったのに、しなかったから、というのが理由らしい。
籠城している家の隣に住んでいる男(又七郎)は、阿部家の昔からの友人なのに、討手が攻め入ってきたドタバタの中で、弥五兵衛を槍でついた。
ひどい!
●堺事件
これも現実なの?
堺にて、フランスの兵に隊の旗を持っていかれ、どうにかその旗を取り返して、一触即発になった時に、一斉攻撃をした。フランス水兵は13人死んだ。それでフランスがとても怒っているのである。
謝罪。隊の中から20人を死刑。遺族にお金を払う。ことが求められた。
こちら側の隊は、可愛いもんで、「あなたは撃ちましたか?それとも撃ちませんでしたか?」と問うのである。撃った→29人。撃ってない→41人。
29人は、刀を取り上げられて移動。死刑になる20人をくじ引きで選ぶ。
死刑を明日に迎える前日の夜に、20人は切腹しようという考えになった。
フランス兵を撃ったのは、軍の上からの命令に従っただけであって、それが罪であったり間違いであるとは考えられない。だから切腹の令をください。
そうして切腹の許可が降りた。しかも士分として取り扱ってもらえることになった。
いよいよ切腹。フランス人の前で、「俺らはお前のためには死なない。日本のために死ぬ。日本男子の切腹をよく見ておけ」と言って切腹するのだ。
人数も多いのに、なかなか描写も凄くて、右手でどのようにナイフを持って、どこに刺し、どうやって動かして、どうやって首を落とされたか、というのが延々と続く。
なかなかリアルでグロい。
11人まで終わったところでフランス人が退席する。中断。
あまりにも悲惨な状況だったので、残りの9人は切腹しなくてもいいようにしてくれた。ひょんなことから生き永らえてしまったが、士分にはなれず、しかも流刑に処せられた。悔しい。
妙国寺で切腹した11人のために、石碑が建てられた。「御残念様(ござんねんさま)」という。
さらに切腹が叶わなかった9人が入るはずだった9つの大瓶は「生運様(いきうんさま)」と呼ばれている。
●余興
たいして面白くもない、長いだけの浪花節と下手くそな三味線。
それを我慢して聞いているだけで、帰らなかった自分を褒めたいくらいなのに、若い芸者に「面白かったでしょう。」なんて言われてがっかりしている。
面白くなかったのに、面白かったでしょう、なんて声をかけられてしまうなんて、自分は見くびられている、落ちこぼれだ、もうダメだ、そんなふうに舐められているようでは、我慢できない、と落ち込む話。
●じいさんばあさん
小さくて粗末な家に、ある日じいさんが、遅れてばあさんも引っ越してきた。
質素な家で、裕福そうではないが、二人とも気品があって、慎ましく、穏やかに、のんびりと過ごしているようだ。
夫婦なのか?兄弟なのか?
一体何者なのか?と近所の人は考える。
二人は昔夫婦で、江戸と京都に離れ離れに住んでいたことがあった。
そこで夫は友人に借金をして刀を買って、見せびらかしパーティーをするのだが、金を貸した友達が「呼ばれてないんだけど」と言って、パーティーの途中でやってきて、「借りた金で刀を買うのはいいけど、それを見せびらかすのはどうだろうね」と言ってパーティーに水を差す。「了解。それはまた聞くから、とりあえずお前は帰れ」と言いながらも喧嘩になって、買った刀で額を切り付ける。そしてその友人は死んでしまう。
禁錮の刑になったため、家族は離散。江戸で一人で帰りを待っていた妻は、働きに出る。31年間も働く。そんな中、夫の禁錮の刑が終わったので、二人は37年ぶりに再開して一緒に暮らしたという話。
しかも、妻の31年間の働きっぷりが良くて、ご褒美に銀貨10枚ももらった、という話。
よかったね。
●寒山拾得
わーこれ、オチが一回じゃ理解できなかった。悔しい。
いや、オチとかないのか?
私の理解で合っていたのか?
閭丘胤という官吏は長安から台州に移動する前に頭痛がして、乞食坊主というのが飛び込んできたので、祈ってもらい、見事に頭痛がなくなる。
豊干と名乗るその坊主が国清寺から来たというので、台州に着いたら行こうと決める。
さらについでに会っておくべき偉い人はいるかな?と聞くと、寒山(文殊)と拾得(普賢)を紹介される。
いざ、閭が国清寺に行って会ってみると、なんのこっちゃ、拾得は寺の台所で食器を洗いつつ、食べ物をくすねている。寒山は石窟に住んでいるが、拾得がくすねる食べ物を貰いにきて、二人で台所の火にあたっている。
閭が、豊干から二人のことを(偉い人だと)聞いたんだけど、と、拝んでいると寒山拾得は大爆笑。あのやろー豊干しゃべったなーと言って、走って逃げていく。
後書の山崎正和の『森鴎外 人と作品ー不党と社交』は面白かった。
森鴎外という人間がかなりよく分かる。
当時の海外で見られたサロンとかカッフェなんて文化は、いろんな芸術がが出入りして、同調でもなく喧嘩でもなく、いろんな物事について各々がいろんな意見を組み交わし、ゴールもなく、でも各々が何か得るものがあって帰っていくのだった。
それに比べて日本は師弟文化が強く、何か党を組んでも、排他的で、内向的で、崇拝的な部分がある、狭いグループだった。きっとみんな家族や仕事から飛び出したくて、芸術に光を見出して、良かれと思って党を組むのに、それじゃあ、もといた世界と変わらないじゃないか、全然自由じゃないか、という。
その中でも森鴎外は生涯中立、孤独、どこか一つを深く信じ込むようなことはなく、でもいつでもどこにでもいて、誰とでも会うし、いろんな話を聞くけれど、どこにも所属せず、他人との距離は常に一定にあったという。
ドイツ留学中に、本場の空気に触れ、居心地の良さを感じ、(日本人なのに)そこでも自由に振る舞えた森鴎外にとって、日本の文壇では息苦しかったのだろう。
262ページより
「鴎外によれば、彼には逢いたいと思う人を自分から訪ねる習慣がなく、逆に、訪ねてくる客を謝絶したり淘汰する習慣もない。その結果、彼には「逢いたくて逢わずにしまう人」が多いのであるが、そういう人物の一人である四迷に逢えたことに、鴎外はそれだけで天与の満足を覚えている。」
そうか、私と鴎外、似てるんだわ。
年譜もなかなか読み応えあり。
明治七年12歳。第一大学区医学校予科(東大医学部)に入学。年齢が足りなかったので、2歳サバを読む。
明治十八年23歳。留学先のドイツで「ビイルの利尿作用に就いて」の研究を続ける。


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