
遺作となった。東海道五十三次。
式場先生が亡くなって、ライフワークとして山下清が選んだのは、東海道五十三次。
30年かかるだろうと考えていた。
昔のようにぶらりぶらりしながら気ままに、と、考えられるかもしれないが、場所はある程度決まっているわけだし、その土地でいい景色がなくても何か描かなくちゃいけないわけだし、現時点では色使いまでは分からないけれど、人がいなくて閑散としていて寂しい印象だ。
数年がかりで取材を終えて、自宅で思い出しながら素描を進める。
その途中で病に倒れ、作品は未完で終わったように見えた。
しかし、遺族が清の部屋を整理していると、残りの13枚が見つかった。
素描の状態ではあるが、見事に作品を完結させこの世を去った清。
どうしてそんなことをしたのだろう。
きっちり朝10時から18時までしか働かない人だ。
しかも作業の記録は絵の裏に書いていたのではなかろうか。
(貼り絵の時しか書かないのかな?)
時間外労働や残業はしなさそうだし。
仮に、時間外でコツコツ作業していたとしても、死んでしまったタイミングに、キレイに全部そろってました、ってのも不思議だ。
どうして隠す必要があったのだろうか?
全部できてたなら、少しでも貼り絵の作業に着手はしなかったのか。
謎が深まる。
よく、有名税なんて言われて、有名になった人は、少し生きづらくて窮屈なことあっても耐えなさいよ、みたいな空気がある中、それでも大抵は嫌なことだけではなくて、それなりにお金を稼いだり、チヤホヤされたり、有名になった分それ相応のものを享受していたりするのだろうけど、山下清に関しては、かわいそうなくらい何も享受していないのだ。
彼の日記にお金のことはあまり書かれない。無頓着だったのだろう。もちろんルンペンの頃はお金がない、としっかり書かれている。でも有名になった後のことは一切書かれない。弟が管理してたのか?山下清展でどれくらい稼いだのか?
展示会開催中に日本を巡る時だって、本人は、「なんでお金を払ってこんな宿に泊まらなくてはいけないのか。駅はタダだった」などと考えている。
無欲なので、いくら稼いでも彼にとってはお金は意味を持たないのだ。
さらに、釣りをしようものならファンに見つかって釣りどころではなくなる、ぶらりぶらりしても見つかって「なんでこの前来てくれなかったの」とかまで言われる、なんで人はあんなにサインをねだるのか、それを持ち帰ってどうするのか、と、清が言うように、どこへ行ってもギャーギャー言われるだけ。
弟も、弟の嫁も、弟の子供たちも、メディアに見張られるだけ。
清は「ゴッホは生きている間に才能が認められれば幸せだったのに。死んでから高値で絵が取引されても、お墓に大勢の人が来ても、ゴッホは知らない」と言った。
全く正反対で、清は生きている間に大いに才能を認められ、時の人となったのだが、絵が高く売れることや、死んでからお墓に大勢の人が来ることを、喜ぶ人ではなかった。
自由だけが奪われて、どんなに苦しかったことだろうか。
そんな時期に、描かれた作品たち。
49歳という若さで亡くなってしまった。


コメント